「ケルベク」(Kervić)-ボスニア
昔々、ボスニアの深い森の奥に、人々が「夜の守り手」と呼ぶ不思議な存在が住んでいると語られていました。その名はケルベク。大きな山犬のような姿に、人間の言葉を話し、夜の気配をまとう者です。
誰もその姿をはっきり見たことはなく、姿を見た者は口を閉ざすとも言われていました。けれど、村の長老たちはこう言いました。
「ケルベクは恐ろしい魔物ではない。森の秩序を守る者だ。嘘をついたり、森を汚したりすれば、静かに現れておまえを試すだろう。」
そんなある日、少年アミルが村で一番古い森に迷い込んでしまいました。木々は高く、月の光すら届きません。アミルは恐怖に震えながら歩いていると、かすかに低い声が聞こえました。
「どうしてここに来た?」
振り返ると、そこに黒い影のような犬が立っていました。目は青白く光り、言葉を話しているのです。
「ぼくは…森の奥の泉を探していただけです。おばあちゃんの薬になると聞いて…」
その言葉を聞くと、ケルベクは少しだけその耳を動かし、森の奥へと歩きはじめました。
「ついて来い。だが、試練は受けてもらう」
アミルは黙ってうなずき、後に続きました。
森の中でアミルは三つの試練に遭いました。
ひとつ目は、道に迷った小鹿。アミルは泉を探す時間を惜しまず、小鹿を母親のもとへ連れて行きました。
ふたつ目は、倒れかけた老木。木の根に絡まっていた縄をほどいて助けると、風がやさしく吹きました。
みっつ目は、水を汚す男の幻影。アミルは怒って叫び、幻影に立ち向かいました。
そのすべてを終えたとき、ケルベクは姿を変えました。もはや獣ではなく、人の姿をとった、白髪の老守人でした。
「おまえの心は、森と人とをつなぐ力を持っている。これを持って行け」
そう言って、老守人はアミルにひとしずくの光る水を渡しました。それは泉の力を宿したしずくで、どんな病も癒すと言われています。
村へ帰ったアミルは、そのしずくでおばあちゃんを助けました。そして、それ以来森では奇妙な現象が消え、動物たちが人に近づくようになったといいます。
人々はアミルのことを「森の声を聞いた少年」と呼び、そして今も森に入る前にこうつぶやくのです。
「ケルベクよ、見ていてください。私たちは森を敬います」
おしまい。
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